第4章 人々との出会い
4−1 留学生課
米国ではたいていの大学に留学生課がある。
私はブローシュアーをもってよくここを訪ねた。
独自に様々な国の文化紹介のイベントを行っている大学もあり、プレゼンテーションができるのではないかと期待したからである。
留学生課の職員は親切で、外国人にも慣れているので、話しやすかった。
ローチェスター大学では、大学の留学生が地元の学校で文化紹介のボランティアをする関係から、いろいろなってがあるらしく、いくつかの学校とコンタクトを取ってくれた。また、この大学には留学生の妻の会があり、月に2回ほど、集会が開かれている。
会員の自宅で食事会をしたり、ハイキングへ行ったり、ボランティアの英語教師から英語を習ったり、集会の内容は様々であるが、私はこの集まりにも参加してみた。
そこでは、現地に滞在している日本人の協力で、日本料理の試食とお茶の会を行った。
あるとき、この留学生課の職員に、国際教育会議(NAFSAConference)のことを教わった。この会議は、留学生課の職員や国際交流関連を専攻している学生たちが集まり、情報交換する場である。地域ボランティアをしている者については参加費が80ドルでよいということだったので、参加することにした。ここで、SohoolofInternationaltrainingの日本人学生
と話したことがきっかけで、後にそこでもプレゼンテーションをすることになった。
ほかにノースイースタン大学の留学生課などにもお世話になり、留学生課のことは忘れられない。
4−2 ホストファミリー
体験活動の開始から半年は、ニューヨーク州ローチェスターのホストファミリーを拠点として活動していた。
その間バッファロー、オーリエン、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、ミシガン州など様々な地域に出向いてプレゼンテーションする機会を与えられた。
ローチェスターに着いて最初に出会ったホストファミリーの母親がシエリーだ。
彼女は3人の子どもを持ちながら小学校教師として働き、家事をし、夜間は大学院に通い、夜中に勉強をして修士課程を終えた。
私がローチェスターについたその日、シエリーはジョージという男性と一緒に迎えにきてくれたが、そのうち「実はジョージと私、最近つきあい始めたばかりなの」と打ちあけられた。夫と早く死別した彼女に恋人ができたのだそうだ。
まだ子どもにも親にも打ちあけていないと言う。
驚いた。
フレッドとリズ
2番目にお世話になったホストファミリーはローチェスターモルベルストリートに住んでいる。ここは近所同士で仲が良く、夕方になると自然に人々が家の外に出て団らんの時が始まる。子どもたちが道路で遊んでいるのを見守りながら、親どうしも親睦を深める。また、春から秋にかけては毎週月曜日に公園でポットラックパーティーがあり、それぞれが食べ物を持ち寄り食事と会話を楽しむ。
ここにはお互いの関係を保つコミュニティーがあった。
フレッドとリズは、結婚後約1年間アジア、アメリカ、ヨーロッパを旅した。
彼らは子どもをベビーシッターにあずけて外出することがある。
父親、母親の顔から恋人どうしの顔に一変する。
子どもができても2人だけの時間を大切にしている。
毎晩子どもを寝かせるために父親のフレッドが歌を歌っていた。
フレッドがいない時に私が日本の歌を歌ったりしていたが、弟のボウレンには手こずった。「また歌って」「もう一曲」「最後にもう一度」と言って、なかなか寝てくれない。
姉のペンデルが「ボウレン、いいかげんにしなさい」と助け船を出してくれた。
リズはモダンバレーの教師だ。毎朝子どもを学校へ送ると、スタジオで1時間、創作のために練習する。
家事、育児から解放されている時、彼女は自分自身の目標のために生き生きと取り組んでいる。
ダンとKK
9月に、マサチューセッツ州、ボストン郊外のニーダムに移った。ダンは、会社を辞めて現在は自宅で小説を書いている。
妻のKKと娘のアナとローズィーという4人家族だ。グンとKKの子どもに対する接し方が印象に残った。
子どもの声には必ず耳を傾け、必ず答える。
いつも見守ってくれる誰かがいることで子どもは強い子に育つとダンは語る。
例えば、アナは、学校で他の生徒がアナに対して意地悪なことを言ったとしても、それを自分の落ち度と見ずに、その生徒の落ち度と捉えることができるそうだ。
ここでは、一家の生計を支えるのはダンであるが、食事もたいていダンが用意している。夫婦で協力して家事、育児を行っていた。
パリーとバニー
ボストンに近いジャマイカプレインに住むパリーとバニーは2人とも元医者だ。
ともに離婚した経験があり、それから再婚した。
だから、パリーの子ども、バニーの子どもと区別して覚えなければならず、初めは苦労した。
パリーの娘、ハイデイーは、ジーンという女I性をパートナーとして暮らしている。
ハイデイーとジーンには息子エイビスがいる。
彼は人工授精で生まれた子どもだそうだ。
エイビスは、ハイデイーをマミーと呼び、ジーンをマームと呼ぶ。
家族の形態が型にはまっていないのがアメリカらしい。
4−3 そのほか
米国に滞在中、日本に行った経験があってその間に日本人に親切にされたという人々から多くの助言を得た。
マウリーンもその一人である。
彼女は2回ほど日本を訪ねたことがあり、今でも日本の友達と文通している。
ローチェスターでは、似顔絵画家のデービッドと出会った。デービッドは、かつて日本を訪れて以来、日本語の勉強を続けている。
彼は、NACの活動のためにと、私の似顔絵入り特製名詞を作ってくれた。
この名詞を渡すと、いつもその絵が話題になって後の会話がしやすくなった。
このように、プレゼンテーションの機会は人と人のつながりから生まれていった。
教育機関でも、教師だけではなく子どもの両親の協力が大きかった。
また、クエーカーの人々との出会いがきっかけとなり、そのネットワークを通じて幅広い地域で活動ができた。
泊まりがけでプレゼンテーションを行うことが多かったのに、一度もホテルに泊まらずに1年間すべてホームステイで過ごせたのは、米国人のボランティア精神のおかげである。