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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第2章③

第2章

2-2 原爆展の中止

 春から夏にかけて、スミソニアンの展示計画を非難する動きは次第に激しいものとなった。8月10日には24人の米下院銀が「展示は反米的偏見があり、バランスを欠く」(平岡1995: 12)として、スミソニ アン協会事務局長に対して展示内容の変更を申し入れた。

 

秋になると、ハーウィット館長は広島市長に、「最後の幕 -原子 爆弾と第二次世界大戦終結」(同上)というタイトルの約450ベー ジの修正台本を送った。

 

「お聞きのことと存じますが、最近、米国の新 聞報道等で展示台本は非難を受けてきました批判を受け、当館は太平 洋戦の初めのころの歴史に関連した資料を増やすことを余儀なくされま した 」(同上)

 

ハーウィット館長の手紙は当初の展示計画を大 幅に変更し、日本海軍の上海爆撃(1937年)、捕虜虐待、無差別爆 撃など日本の戦争責任を強調する写真などを追加することになったが、 その間の事情を理解して、被爆資料を貸してほしいということであった。

 

被爆資料を展示したいと考えていた。 彼は何とかして、 9月22日、 議会に影響力の強い退役軍人団体の圧力によって、 米国上院は次の決議を採択した。

 

エノラ・ゲイ第二次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った。国立航空宇宙博物館のエノラ・ゲイ展示の現在の企画書は、修正主義的で、多くの従軍兵士にとって侮辱的である。・・・・・自由のために命を掲げた人々の記憶を非難し、攻撃すべきではない」(同上:14)

 

原爆投下が、戦争終結を早め、米国人だけでなく、日本人も救われたーという考え方は、トルーマン大統領以来、歴代大統領の公式見解であり、多くの米国人の考えを反映したものだった。

 

これに対して、今なお放射線障害に苦しんでいる広島の被爆者は、

「“慈悲深く”とはいったい何ということだ」(同上:15)と怒りの声を上げている。展示内容の変更を求める攻撃に対して、スミソニアン側は懸命に抵抗していた。

 

10月26日、ABC テレビ、「ワールド・ニュース・ナウ」はスミソ ニアン協会のマイケル・ヘイマン事務局長と全米退役軍人協会のウィリー アム・デトワイラー氏を招いて、両者の言い分を放映した。

 

スミソニアン協会の責任とは軍の行動を記念することだ。われわれ が心配しているのは、展示を見た者が、アメリカの兵士は残虐だ、血に 飢えた戦争屋だ、あれは単なる復讐だったと思うのではないかというこ とだ」(同上:16)と述べた。

 

展示内容に反対するデトワイラーに対してヘイマン事務局長は「退役 軍人たちとも話し合い、原稿も書き直してきた。退役軍人協会が納得しなくても、広島・長崎へ投下された原爆の影響などは、何があってもこ の展覧会で伝えようと思っている」(同上:16)と一線を譲らなかった。

 

年が明けると、事態は急変した。その発端は、スミソニアンのハーウ ィットが、在郷軍人会にあてた一通の手紙から始まった。それは、原爆をを投下しないで本土上陸作戦を実行した場合の推定死傷者が、6万3千人とするスタンフォード大学バーンスタイン教授の意見を受け入れるという通告だった。

 

バーンスタイン教授の最新の研究では、推定死傷者は、6万300人である。その根拠となったのは、1945年の6月18日のホワイトハウスで行われた最高作戦会議についてのレーヒー提督の日記である。

 

「午前3時半から5時にかけ、大統領は総合参謀本部、海軍長官、マックロイ陸軍次官とともに、日本上陸の必要性と実現性について協議した。マーシャル将軍とキング提督はともにできるだけ早く可能な日に九州上陸を行うことを強く唱えた。マーシャル将軍の意見は、それにより被る死傷者は、作戦に必要と見積もられる戦闘 軍隊19万人のうち6万3000人を越えることはないとの意見だっ た」と記録されていた。(斉藤 1995a:198)

 

ジョージ・マーシャル参謀部長の見積もった約6万3000人という数字は、資料的に裏付けられたものだった。死傷者を6万3千人とするならば、死者はもっと低く見積もられる。 しかし、在郷軍人会にとって、その数字は受けいることのできないも のだった。

 

1月18日、「スミソニアンは原爆展を即時中止せよ」(同 上:200)と最後通告を出した。スミソニアン協会はそれを拒否した。 在郷軍人会は、スミソニアン公聴会にかけることを要求した。これに 対して議会も、ハーウィットの即時辞任を要求した。 1995年1月30日、原爆展の中止が、博物館の上部団体であるスミソニアン協会の理事会で正式に決定された。

 

協会のヘイマン事務局長は、「われわれは原爆の使用を歴史的に見ることと、終戦から50年という記念することと、この二つを結び付けてしまうという基本的な間違いを犯した・・・・・この重要な年にあたり、国は退役軍人やその家族の勇敢さと懇親とを讃えるべきである。彼らは、(歴史の)望んでいたわけではない」と述べた。(同上:201) まだ歴史を直視することができなかったのである。

 

ハーウィット館長が広島市長にあてた手紙からは、無念さがうかがえる。

 

スミソニアン協会は、本日(1月30日)、特別展<最後の幕ー原子爆弾第二次世界大戦終結>を開催しないことに決定しました・・・・広島平和記念資料館からの被爆資料の貸し出しを依頼していましたが、これは、被爆者個々人の了解を必要としました。多くの被爆者にとって、この貸し出しに同意することはむずかしく、感情のこみあげるものだったと理解しています。この被爆者の方々に対し、今までのご協力に心から感謝いたします。また、悲痛な決定の結果、被爆資料を展示できなくなったことは、非常に残念でなりません」

 

手紙の最後には、「お分かりいただけるように、私は、貴方がたいへん協力的であ ったこの特別展が中止されたことを、残念に思っています」という文章 で結ばれていた。(平岡 1995:19)

 

第3章に続く。。。