第1章 アメリカでの原爆展
本章では、筆者の問題意識と研究の論点を示す。
最初に第2次世界大戦終結50周年を記念して、米国の国立宇宙 舘が原爆展を開催するという計画に至った過程を振り返る。
同時に博物館がアメリカ国民に、 広く被爆の実相を伝えようとしていたことを、展示台本の特徴に焦点をあてて紹介する。
1-1 原爆展の計画
スミソニアン博物館は、1995年5月に原爆展を開く計画を進めていた。
この博物館は、スミソニアン協会の一部門であり、ワシントンにある。
それは、ライト兄弟の布張りの複葉機からアポロ宇宙船などの実物の飛行機を展示し、世界でもっとも人気のある博物館の一つといえる。
戦後50周年を記念して、スミソニアン博物館は第二次世界大戦の爆撃機、エノラ・ゲイを初めて公開展示することを企画した。
エノラ・ゲイは、世界で初めての原子爆弾を広島に投下した爆撃機である。
1945年8月6日、太平洋のテニアン島を飛び立ち、日本へ向かい、午前8時15分、原子爆弾を広島に投下した。
一発の原子爆弾により、広島の町は崩壊し、およそ14万人が犠牲になった。
スミソニアン博物館はエノラ・ゲイの展示とあわせて、原爆被害の実体を伝えようとした。
企画を中心となってすすめたのは、館長のマーティ ン・ハーウィットだ。
物理学者として核実験に関わった経験があるハーウィットは、被害を具体的に見せたいと考えた。
彼は、
「エノラ・ゲイの歴史の中で、被爆遺品は重要な部分を占めていす。エノラ・ゲイの任務を語ろうとするなら--その歴史のすべてを来館者に提供する責任 があるのです。」
と語っている。(NIIKスペシャル「アメリカの中の 原爆論争·スミソニアン展示の波紋」1995.6.11)
飛行機だけではなく て、その飛行機が何をしたかもふまえて展示しようというわけだ。
原爆投下 をテーマにした特別展の協力を求めるためである。
ハーウィットは市長 に、
「どのようにして原爆投下が決定されたのか、その結果、何が起こったのかという歴史を正確に伝え、見る人が何らかの教訓を学び取るよ うな展示にしたい。そのためには、広島の被爆資料の展示が必要なので、 ぜひ協力していただきたい。」(平岡1996 : 8)
と依頼した。
それに対して広島市長は、
「大変興味ある計画だ。しかし、米国の核政策を考え るとき、原爆の威力誇示になるのではないかという心配があり、即答はできない。私たちは被爆者の苦しみと平和への思いを伝えたい。この広島の願いが、この展示の中で生かされるかどうかを検討したいので、なるべく早く展示企画書を送ってほしい。」
と答えている。
この後ハーウ ィットは、平和記念資料館を訪れた。
熱心に被爆資料を見たあとで、記帳ノートにこう記した。
「文明というものは、人間が歴史から学ぶことができる時だけ生き延びます(後略) 。」(同上)
ハーウィットの意図 は、人々に戦争の全体像を理解してもらいたいということだった。
1993年7月中旬、広島に最初の展示計画書が届いた。
それには、 展示のねらいが次のように書かれていた。
「--この展示の第一の目標 は、見学者に、原爆投下の決定へと至った政治的、軍事的事情、広島と長崎の人々が体験した苦しみ、1945年8月6日と9日の出来事が持 つ長期的な意味合いを考えながら、広島と長崎の原爆投下を、慎重に、公平な判断をもって見直すことを促すことにある。一一」(同上:9)
広島市は、核兵器廃絶と世界の恒久平和を求める展示構成をすることを条件に、11月30日に、被爆資料の貸し出しを決定した。
長崎市も同日に貸し出しを決定した。
ハーウィットは感謝の手紙に
「現在、 私たちが重点として取り組んでいるのは来場した人々が、展示会を見た結果として、正確でバランスのとれた 歴史観を事実から確実に構築するような展示にすることです」と記した。(同上)
展示計画は、まず、これまで公開されていなかった資料に基づいて、原爆投下を決定するまでにどんな議論があったのかをあきらかにしようとしたものだった。
中心に置かれるエノラ・ゲイの隣には広島、長崎の被爆の遺品が展示される予定だった。
選ばれた遺品は原爆がいかに人間に被害を与えるかを示すものがほとんどだった。
熱風で焼けこげた学生服、投下の瞬間に止まった時計、この計画は国立博物館が原爆の悲惨さを訴えるという、アメリカでは画期的な内容だった。
「今や世界に何万発もの核兵器が存在しています。しかもその多くは広島、長崎の千倍の破壊カがあります。核時代にどう生きるかを展示を見て考えてほしかったのです」と語るハーウィットの姿勢を反映していた。( NHKスペシャル 「アメリカの中の原爆論争·スミソニアン展示の波紋。」1995.6.11)
1-2 展示台本の特徴
1994年1月14日に展示台本の第一稿ができあがった。
タイトルは
であり、全部で5部構成である。
ユニット1
「生きるか生きるか戦闘」
では、太平洋における戦闘で、日本軍が絶望的な戦いを繰り返したために、戦闘が激化したことが書かれている。
ユニット2
「原爆投下の決定」
では、原爆を開発したマンハッタン計画、原爆投下の決定にいたるトルーマン政権の制作決定過程、それをめぐる歴史家の論争を紹介している。
ユニ ット3
「原爆投下」
では、エノラ ゲイの製造から原爆投下の課程をお っている。
ユニット4
「爆心地」
では、原爆以前の戦時下の二都市から 被爆後の広島、長崎を展示している。
ユニット5
「広島と長崎の遺産」
では、原爆が戦争を終結原爆投下を歴史の中に位置づけ、それによって 戦争が終結したばかりではなく、核の時代と米ソの冷戦が始まったこと を指摘している。
これらの展示案は、展示の詰問委員からは広範な支持を得ていた。
バートン·バーンスティーンは
「公平でバランスが取れ、 歴史的な知識が豊富。」(リフトン1995 : 108)
と判断した。
空軍の歴 史家であるリチャード·ハリオンは、
「印象的で.....包括的で..... 明らかに多くの信頼できる研究に基づいている。」(同上)
と述べた。
第2章へ続く…