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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第3章①

第3章 原爆展中止の考察


スミソニアン博物館の原爆展の計画は、1995年始めに中止に追い入まれた。しかしながら、この計画は、様々な議論を生んだ。第3章では、原爆展の論争で、何が問題となったかを整理する。

3-1推定死傷者数

アメリカでは原爆投下によって多くの人が救われたと考えられていることが、展示が中止においこまれた一つの原因のように思われる。しかし、スミソニアン博物館の計画では、この原爆投下で救われた人の数が問題とされた。

 

ハーウィット館長が退役軍人協会に出した手紙では、原爆を投下せず、日本上陸作戦を行った場合のアメリカ兵の犠牲者の数を6万3千人と予想している。これは、広島、長崎の犠牲者より10万人以上も少ないものだ。この6万3千人という数字が、これまで信じられてきた数に比べてあまりにも少なかったので、退役軍人から猛反発をかった。

 

アメリカの高校の教科書では、終戦直後から90年代まで、原爆についての記述はほとんど変わっていない。多くの教科書は、原爆投下には 正当な理由があると書かれている。もし、日本上陸が行われれば、100万人以上のアメリカ兵が犠牲者になったということを根拠にしているのである。

 

原爆投下直後、トルーマン大統領は、原爆投下は正しい判断で、多くのアメリカ人を救ったと発表した。そして、戦争が終わったことに歓喜する多くのアメリカ市民はトルーマンの言葉に疑問を持たなかった。しかし、広島への投下から2週間後、原爆の威力のすさまじさを伝える記事が、多くの人に読まれている雑誌にのった。ラジオでも、原爆投下の是非を問う番組が放送された。

 

原爆開発を押し進めた一人であるジェームズ・コナントは、原爆批判に危機感をもった。コナントはこれ以上、原爆批判が広がるのは、政府にとってマイナスであると考えた。当時の手紙にはその心境が書かれている。

 

「原爆批判は、次の世代を教育する人達に、悪い影響を及ぼす。これは、緊急に対処しなければならない問題である」(NHK スペシャル「アメリカの中の原爆論争・スミソニアン展示の波紋」1995.6.11)

 

第2次世界大戦当時の戦争長官であったヘンリー・スチムソンは、原爆批判を押さえてほしいと依頼を受けた。スチムソンは、戦争遂行の責任者であり、市民から多くの信頼を受けていたので、彼の言うことなら誰もが信じると思われたのである。依頼を受けて5ヶ月後に、スチムソンは、雑誌や新聞にリポートを発表した。

 

原爆投下が100万人の死傷者を救ったと、具体的な数字をあげて、原爆投下が必要だった理由を説明した。当時、スチムソンの側近であり、レポートの完成を手伝ったマックジョージ・バンディーは、次のように述べている。

 

「ステムソンは、戦争終結に必要な兵士の数を考えた。その時『死傷者100万』という数字が思いうかんだ。私はこの数字を確かめるために調べたがわからなかった。今でも歴史学者は裏付ける記録はないと言っている」(同上)原爆が100万人の命を救ったというスチムソンのリポートで、市民の原爆批判は沈められた。

 

今回、スミソニアン博物館は、原爆投下で救われたとされる犠牲者の数を見直そうとした。しかし、スチムソンリポートが作り上げた定説をくつがえすことはできなかったのである。

 

第3章②に続く。。。