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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第3章④

油井は、真珠湾攻撃は、アメリカの海の孤立主義とよばれた外交観や

安全保障観の転換を迫られた衝動的な体験でもあったと述べている。

 

二つの大洋によって隔離され、西半球には米国は

米国に対抗しうる大国が存在しないという地政学的な条件に助けられて、

米国は、元来、軽軍備国家とての特徴をもっていた。

 

一しかし、参戦後に、急速な軍備拡張がかられ、戦中のピーク時には、

1200万人品の兵力をもつに至った。

 

終戦後には、もちろん、動員解除が進行したが、

しかし、戦前のような軽軍備国家への復帰はみられず、

戦後の兵力の最低水準を記録した1948年でも、144万人規模が維持されることになった」(油井 1995.54)

 

つまり、パールハーバーに始まる戦争体験は、

アメリカの安全保備観や軍事観を大きく変化させ、皮肉なことに、

過大な軍事負担に苦悩する今日の原点となったというのだ。

 

人々は、二度と奇襲を受けまいとする意識によって、

アメリカ政府の進める軍拡を納得させられてきたので

人々の真珠湾の奇襲攻撃が与えたわだかまりや、

それがアメリカの国防に与えている影響は、戦後50年たっても残っている。

 

原爆投下が正しかったと判断される原因の一つは、真珠湾攻撃によるものだともいえる。

 

 

3-4 日米の歴史認識

原爆展に対する論争では、真珠湾攻撃の他に、

日本のアジアに対する侵略の加害責任も議論された。

 

スミソニアンに反対したマスメディアは、原爆展の内容が日本に同情 しすぎると

非難すると同時に、大戦中やそれ以前の日本軍の残虐行為を持ち出した。

 

それは、大戦中の残虐行為をいまだに謝罪しない日本に、

なぜアメリカが原爆投下問題で謝る必要があるのかという論法である。

 

この論法は、スミソニアンに反対する勢力を形成するのに効果をあげた。

真珠湾の奇襲、多くの連合軍捕虜が死んだバターン死の行進

硫黄島や沖縄での戦闘の激しさと多大の犠牲、特攻隊の自殺攻撃は、

原爆投下正 当化の論理を補強する材料となったのである。

 

ワシントンで1年あまり、スミソニアン論争を取材していた大塚隆は、

博物館のクラウチが、「原爆投下はアメリカ人にとっても、日本人同様 に、

激しく感情をゆさぶられる問題なのです」(リフトン 1995:232) と話すのを聞き、

この論争が、日本とアメリカで、戦争認識の歪みをう つしだしていると感じたという。

 

日本が戦争責任を認めたがらないように、

アメリカでも、原爆投下が悪かったと認めたがらない。

 

大塚は、「論争が最高潮に達する94年秋ごろまでに、

日本で、先の大戦がなんであったか、その戦争責任をどう考えるべきかの議論が

真剣の行われていれ ば、博物館側はあれほどの孤立無援にまで追い詰められないで

すんだかも知れない。彼らの挫折に対し、われわれはもっと大きな責任を

感じるべきだ、と思う。」(同上)と述べている。

戦後50年の日本での戦争責任についての議論の曖昧さが、

博物館に反対する勢力を勢いづかせたということだ。


原爆問題を取材してきた斉藤道雄は、日本側が、

「はじめに広島、長崎ありき」という捉え方をしている限り、

アメリカに広島、長崎の声は届かないと述べている。

「原爆は、『よかったか、悪かったか』をまずいう日本人。

原爆は、『戦争の一部だった』をいうアメリカ人。」

議論のすれ違いは、このあたりから始まっているというのである。

 

広島、長崎が核の悲劇を伝えるためには、原爆を歴史の中かでとらえ、

その上で原爆が人間にもたらした悲劇を語らなければ、伝わらない。

つまり、 日本が侵略戦争の認識を踏まえない限り広島、長崎の声を

聞いてもらえないという意見である。


アメリカでは、原爆を日本の侵略と切り離した場合には、反発が生まれるのである。