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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第4章③

一方、子どもたちのコーディネーター・ボニー・マルコムは、

「それが8月6日で亡くなったら、運動の意味がなくなってしまう。」と述べた

 

除幕式は広島に原爆が落ちた日にすべきだという意見だ。

 

マルコムは、14歳の時からこの運動にかかわり、1994年3月には大学生となっていた。

 

コンピューターに平和の像への寄付を送ってきた子どもたちの名前を打ち込んできた。

 

それは、1995年の夏に読み上げられる予定になっていが、けして、原爆を讃えるためではなかったというのである。


アメリカの原爆、日本の侵略、歴史教育はどうしてもその国の見方に立ちがちである。

 

それでも、子どもたちは、広島で被爆したサダコの話を知って、平和の像をアメリカでも建てる運動を始めた。

 

子どもたちはなぜこの運動を始めたのだろうか。

 

マルコムはこう答えている。

 

「1945年に起きたことで、どれほど多くの人が影響を受けたか、アメリカの高校では習わないんです。子どもたちに教えなければ原爆はまた落とされるでしょう。歴史教育というものはどうしても、

その国の見方に立ってしまいますが、私たちは広島とロスアラモスの間に平和への糸口を見つけたいのです。」

 

マルコムは、歴史教育が一国の見方に偏りがちであることに気づいている。

 

だからこそ、原爆を開発したロスアラモスと、原爆が投下された広島の糸口を探そうとしているのである。


過去の記憶を引きずったまま、そこから抜け出せない世代と違い、子どもたちは、世界を変えていこうとする。

 

その力は小さいかもしれないが、何かが変わっていることは確かである。

 

マルコムは言う。

「ひとりの子どもの声でも届くのだということ、聞いてくれる人がいるということ。このプロジェクトが多くの人に影響して、感動してくれる人もいたし、

人生を変えた人もいました。・・・・・この運動をやってよかったと思います。」


しかし、除幕式をVJデー(対日戦勝記念日)と決めた市議会の決定は打撃だった。

 

それは、運動を続けてきた人に、広島にこだわっていて一は、平和プロジェクトが実現しないかもしれないという不安を与えた。

 

そこで、次の公聴会では、なるべく広島に触れないようにしようとした。

 

最終的には、それがかえって裏目に出て、議員の論理にうち負かされることになる。


1994年、11月21日に、二年ぶりに二度目の公聴会が開かれた。


ロスアラモス市議のジム・グリーンウッドは子どもたちに尋ねた。

 

「これは、反核反戦、反ロスアラモスではないのか?」

 

ボニーはそれに対して

 

「これは純粋に、子どもたちが平和を求めるということです。ロスアラモスに反対するつもりはないし、50年前に起きたことを非難するつもりもありません。子どもたちが将来の平和を求めているのです。」

 

と答えた。

 

すると、議員のデニス・スミスが追い打ちを かける。

 

「平和の像の目的はなんですか。なぜロスアラモスでなければいけないのですか?(原爆投下の)決定は、ワシントンで行われたのですよ。」

 

それに対して14歳のデビット・スミスは

 

「ロスアラモスが核の時代の誕生の地だからです。・・・・・僕たちがやっていることは過去の戦争とは関係がないんです。世界中の子どもが平和の未来を持てるように願っています。」

 

こんどは、モリス・ポングラッツ議員がデビッ トに尋ねる。

 

「過去にこだわらないというなら、除幕式はいつでもいいんだろう?」

 

「いえ、そうではありません。」

 

とデビット。

 

「そりゃ、 おかしな話だねえ。過去にこだわらないというなら、いつだっていいじゃないか?」

 

とボングラッツ議員が言う。

 

なるべく広島に触れないよう にする子どもたちの言い分は弱かった。

 

その論理は、原爆の町、ロスアラモスでは通用しなかった。

 

グリーン・ウッド議員は、

 

「(平和の像の運動を説明した)チラシには、サダコの友人たちが原爆で死んだすべての子どものために記念碑を作ることを考えた、とある。つまりその姉妹像も原爆で死んだ子どものためのものなのか。そのところをあきらかに してほしいね。」

 

と述べている。

 

原爆の犠牲者を慎むような碑であるな ら、ロスアラモスに建てることは

できないというわけである。

 

原爆は人を殺したのではなく人を救ったのであり、原爆は戦争のために落とされたのではなく、平和をもたらすために使われたという立場を通し、結局、 市議会は、平和の像を拒否することに決めた。


一方、公聴会の後で、市議会議員のひとり、ジンジャー・ウェルチは、舞台裏で子どもたちの願いをかなえようと力を尽くしていた。

 

ウェルチは、市議会の裁決で、常に子どもたちを支持して少数派にまわっていた人物である。

 

彼女は、市議会を離れて個人的に子どもたちに力を尽くした。

 

原爆を生んだ町でも、原爆を悲しみ、平和運動を支持する人たちはいるのである。

 

しかしながら、結局ロスアラモスでは、子どもたちの願いは聞き入られなかった。


子どもたちは、平和の像を、プロジェクトが始まったニューメキシコ州アルバカーキーに建てることにした。

 

アルバカーキー博物館は、地元の退役軍人たちの抗議にもかかわらず、職員が相談した結果、平和の像を受け入れることにした。


1995年8月、「ピース・ガーデン」と呼ばれる平和の像が建てられた。

 

地球儀をかたどったこの平和の像の表面には、たくさんのブロンズの花や動物があしらわれていたが、広島にあたるところには一羽の、金色の折り鶴が輝いている。


原爆が投下されてから50年前の夏、子どもたちが作ったこの平和の像の前では、署名を寄せた4万9000人の子どもたちの名前が読み上げられた。


スミソニアン論争の議論から、原爆についての見方は日本とアメリカでは違うように思われた。

 

しかし、アメリカにも、原爆を悲しみ、平和運動をする人々はいる。

 

原爆投下から50周年、過去の傷が癒されていない人もいるが、過去から未来に向かって、何かを変えていこうとする。 動きも始まっていた。