終章 おわりに
終戦50周年を記合スミソニアン航空宇宙博物館は第二次世界大戦の終戦50周年を記念してエノラゲイを展示する直爆展開催を計画していた。
しかし、この計画はエノラゲイを展示するだけにとどまり、歴史の脈絡の中で原爆を展示する計画は中止となった。
第1章で取り上げた、原爆展開催の目的は、人々に戦争の全体像を確認してもらいたいということだった。
この推進役となったのはマーティン・ハーウィット館長である。
しかし、第2章の原爆展をめぐる論争であきらかになったように、原 爆展開催に対する反対者の意見は、その展示によって示されるものは日 本人が犠牲者のように思われ、米国人が犯罪を犯したように思われると いうことから生まれたものだった。
一方、スミソニアンの展示に賛成す る人々は、未来の平和を考えるために原爆を直視すべきだという意見であった。
第3章では、何が問題になって原爆展が中止になったかを考察をした。アメリカでは、原爆投下によって多くの命が救われた考えらている背景には、米国政府の公式見解がある。
それは、原爆投下によって100万人が救われたとするスチムソンのリポートである。いまだにそう考える人は多い。また、真珠湾攻撃の報復論は、今もサポートされている。
この論争に関しては、原爆投下決定の持つ道徳的問題、日本の戦争責任、 日米の歴史認識など、専門家を巻き込んだ学問上の論争まで発展した。
第4章では、原爆展論争が行われている一方で、アメリカの子どもたちが平和の像をつくろうした運動を取り上げた。
広島に被爆した少女の 像があることを知って、アメリカにも平和の像を建てようとしたのである。
しかしながら、市議会の反対で、原爆を生み出したロスアラモスでは、建てることはできなかった。
結局、子どもたちは、平和の像をプロジェクトが始まったアルバカーキに建てることにした。アルバカーキー博物館は、それを受け入れた。
以上から導ける結論は、アメリカでは、いまだに原爆投下によって多くの命が救われたと信じる人が多い。
第2次世界大戦を体験した世代は、今でも、その時感じた記憶が残っているからである。
しかしながら、一方で、子どもたちが行った平和運動のように、広島、長崎の体験を学び、現在と未来の平和を作ろうとする人もいる。
戦争の記憶が残る世代は、いまだにそれをひきづっているが、子どもたちのように、過去から学び、 自分たちの手で平和をつくっていこうとする世代も生まれているのである。
参考文献
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1994 『戦争の記憶』 TBSブリタニカ
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米山 リサ
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ジェイ・ルービン
1995 「『平和の武器としての原爆』---占領下における原爆文学の検閲」マヤ・モリオカ・トデ シキーニ編『核時代に生きる私たち--広島・長崎から50年』 時事通信社 101-130頁
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1994.11.29 「スミソニアン博物館の原爆展論争」
1995.01.23 「米国民ノヒロシマ観 ロバート・リフトン氏に聞く」
1995.1.31 「被爆者ら怒りと無力感 米スミソニアン博物館の原爆展中止」
1995.02.01 「中止された原爆展」