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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第3章②

3-2 個人の歴史と記憶

スミソニアンの展示に対する論争で、ステムソンリポートのように、 公式発表がつくりあげられた歴史と、個人の思いこみがごちゃまぜにな って、議論が混乱している分野があった。

 

つくりあげられた歴史というのは、原爆投下が、100万人の命を救ったという公式発表である。それは、原爆が投下されずに上陸作戦が行われていたら、多くのアメリカ兵が死んでいたかもしれない、だから、原爆はこれらのアメリカ兵を救 ったのである、という人々の思いこみを生み出した。

 

確かに、太平洋戦争の末期、沖縄の占領を果たしたアメリカは、日本本土への上陸作戦を計画していた。1945年11月1日九州上陸をめざした「オリンピック作戦」と、翌年の3月1日に予定されていた関東地方上陸の「コロネット作戦」である。これらの上陸作戦が行われてい れば、ヨーロッパ戦線のノルマンディ上陸作戦に匹敵する歴史的な大軍事行動になっていたと考える人が多い。


しかし、実際には、第2次世界大戦当時、日本の降伏が近付くにつれ、 本土上陸作戦の可能性は次第に薄れていた。1945年の3月10日の東京大空襲以降、日本国内には太平洋戦争の敗北を予想する気運が強まっていた。

 

昭和天皇アメリカとの停戦を決議し、ソ連を介して和平工作を始めたが、東京とモスクワの秘密電報のやりとりは、アメリカ軍に よって傍受、解読されていた。アメリカは、ポツダム宣言を出すかなり 前から、日本が和平の動きを始めていたことを知っていたのである。

 

1945年6月の段階でアメリカの軍首脳では、「日本はもう望みがない」と言明している。(斉藤 1995a :44) 日本の和平工作の顕在化とともに、日本の降伏は時間の問題だという認識が次第に生まれていたのである。それは、アメリカ政府内部では降伏後の日本をどうすればいいかが検討されるようになっていたことからもいえる。

 

とはいうものの、戦争は、その当時の全体の状況を把握していないと真実が見えてこない。当時、こうした戦争の全体を把握していたのはアメリカ政府と一握りの軍の指導者にすぎなかった。

 

戦前のアメリカ軍兵士は、沖縄の占領後は、本土上陸作戦という緊迫感を持っていた。それは、第2章で、原爆展に反対した退役軍人のベネットが述べた発言からもわかる。ベネットは、本土上陸でどれほどの犠牲者が出るかは想像もつかないと感じていた。

 

そんな状態の中で、8月に、広島と長崎に原爆が落とされ、上陸作戦が行われる前に戦争が終わったのである。そこから、助かったという思いが生まれた。以上のように、退役軍人は、原爆が落とされなければ本土上陸作戦が行われ、多数のアメリカ兵が死んだだろう、だから原爆はこれらのアメリカ兵の命を救ったという記憶を引きずっている。

 

スミソニアン博物館の原爆展は、それに挑戦したのである。歴史資料を引用した後で、上陸作戦の可能性に疑問を投げかけていた。しかしながら、一部の退役軍人にとっては、戦後50年たっても、自分が記憶した体験を、当時の戦争の全体の状況と結びつけて考えることはできなかった。

 

 

第3章③に続く。。。