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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第2章②

第2章

2-1 続き

ジャーナリストの斉藤道雄は、1994年の夏、彼らをを訪ねた。

スミソニアンの展示に反対して署名運動を始めたことについて、ベネットは次のように述べている「私は基本的にはエノラ·ゲイを深く自分 自身の問題としてみている。

 

署名を集めていると、私と同じようにエノ ラ·ゲイは命の恩人だという手紙をたくさんもらう。原爆が落ちたとき 私はインドから沖縄に向かう途中で、 (日本への)上陸部隊に組み込まれるだろうといわれていた。

 

それがエノラ·ゲイが広島に最初の原爆を 落としたら、驚くほど早く戦争は終わってしまった .....それは たとない経験だった.... 上陸作戦はすごい規模の作戦で、世界中の部隊が参加することになっていた。

 

きわめて多くの死傷者が出るだろ うと予測されていた戦時中の日本の閣僚は600万の死傷者が出るだ ろうと予測されていた。アメリカ側も100万人をはるかに越す死傷者 を予想していた」(同上:118)犠牲者数の正確さはともかくとして、ベネットは当時の戦争をこのように記憶した。

 

彼が戦争を経験しているだけに、あんな日を一日も長引かせてほしくはないという思いが伝わってくる。原爆が100万人の命を救ったというのはアメリカだけの見方に過ぎないということかな対してルーニーは、

 

「絶対にここではっきりさせておかなければならないのは、われわれは1994年のいまここで、1995年当時の態度と心理状態を話しているということだ。あの頃人々がどう考えていたか、その気持ちをわかるのは困難なことなのだ。怒りと憎 しみとがどこにも満ちていて、あの当時の私には日本人がどれほど殺さ れようが道義的な問題には思えなかった。私の頭にあったのはラングーンで捕虜になった友人たちのことだったよ。.....(爆撃中)撃ち 落とされてシンガポール公園の洞窟に閉じこめられた友人たちは、何人も首をはねらて処刑されたから。.....こうしたことが、われわれの怒りをかき立てる。そうしたやり方を見ていると、本当に怒りがこ み上げてくるんだ」と述べている。(同上: 119)

 

戦争は怒りと憎しみをともなうという、当時の状況をわかってほしい。未だにそれは忘れ ることはできない。でも、それを体験していない者はそのことを理解し ていないという思いだ 。  

 

ベネットは、スミソニアンの展示に対して、仲間の退役軍人が反対するのは、

 

「戦争に勝ち、戦争を終わらせたという、自分たちの達成したことが拒否されていると思っているのではないか。」

 

と言っている。(同上: 120)彼らは命をかけて戦った自分たちの経験ををスミソニ 展示で否定されるように受け止めたようである。

 

一方、スミソニアンの展示に賛成した退役軍人もいる。ベトナム戦争で兄を亡くしたジェリー·ジェネシオは、 スミソニアン博物館に当てた手紙でこう述べている。

 

「我々アメリカ人が記憶に留めたくない事実、 また将来にわたって直面したくない事実があったとしても、あらゆる資 料を提供する義務を追っているはずです。なにごとも隠すべきではあり ません。退役軍人はエノラ·ゲイを戦争の大事な部分と考えています。 しかし、当時、広島の原爆がどのように準備され投下されたか、そして その時どのような対立意見があったのか、秘密文書を含めて公開すべき です」(NHKスペシャルアメリカの中の原爆論争·スミソニアン 展示の波紋」1995.6.11)

 

ジェネシオはベトナム戦争で兄を失った。

 

「私は戦争を指示するタカ 派でした。そう考えるよう教えられたのです。映画で兵士役のジョン· ウェイン達はいつもヒーローで登場しました。アメリカは常に正しかったのです。しかしベトナムで兄が死に戦争に疑問を持ち始めたのです。」 (同上)

 

彼は、兄を失ったこの戦争を通して、アメリカは常に正しかっ たのかと考えてきた原爆投下については次のように述べている。

 

「原爆投下は我々自身の歴史なのです。他の国は原爆を使っていません。原 爆投下は正しかったのか?将来の使用は許されるか?議論すべきです」(同上)

 

ジェネシオは、ベトナム戦争の世代の退役軍人だ。ベトナム戦争は、 当時の国防長官が、戦後20年を経て誤りだったと発言した戦争である。 彼は、第二次世界大戦で戦った退役軍人のように誇りをもっていなかっ た彼は、兄の死から16年後に、平和のための退役軍人の会を結成し た戦争と原爆投下に反対する元兵士たちが集まるボランティア組織だ。

 

彼らは、自分たちの運動を広く知ってもらおうと考えた。そこで、スミ ソニアン博物館で展示するはずだった被爆者の写真を、会の機関誌の表 紙に使い、全米に配ろうと試みた。以上のことから世代によって、戦争観、原爆観は違うことがいえる。

 

スミソニアンの計画をめぐる論争がきっかけで 、原爆投下が必要であったかどうかを考えるシンポジウムが、テキサス州サンアントニオで開かれた。原爆の研究を続けてきた歴史家たちと、戦争体験を持つ軍人が議論を繰り広げた。

 

原爆投下の決定を理解するため 原爆投下が必要な資料は、長い間隠されていたが、新しい資料の発見で投下決定に 関する考え方は変わらざるをえない「ソ連の参戦、経済封鎖、空襲 そして天皇制を残す約束など--他の方法でも日本は克服していたかもしれない。原爆投下は必要無かったかもしれない。」と歴史学者のハーウィ ットは発言した(同上)                      

 

12月7日、ワシントン大学アメリカ市内で行われた「エノラ·ゲ イ展-スミソニアンは皆を満足させられるかで、ピーター ブルート 下院議員は原爆投下の擁護論を述べた。「いいですか、真珠湾攻撃があって、南京大虐殺があって、パターン死の行進があって、沖縄が、硫黄 島があって、そういう15年にわたる(日本の)侵略で何百万という人 が殺されたんだ。

 

それはアメリカ人のせいじゃない、日本の侵略があっ たからじゃないか。だからあの戦争は終わらせなければならなかった、それも迅速に終わらせなければならなかった。そしてわれわれはその手段を、技術的に可能にする手段(原爆)を持っていた。そしてトルーマン大統領が決定を下した。

 

難しい決定だったが、そこで正しい決定を下したのだ。戦争を終わらせる、アメリカ人の命を救う 、という決定を。」(斎藤1995b : 138)ブルートの思いは、原爆 本本土上陸作戦が行われ、多くの犠牲者が出ただろう·自分 も死んだかもしれない、というものだ。

 

これに対して、アメリカの歴史学者アンナネルソン教授は、歴史とは何かという点を述べた。「多くの人が(歴史的な)出来ごとに遭遇し、そこでたくさんのことを見ます が、しかしそれは全体を見ているわけではないのです。

 

そしてまさに展 示(の企画書)の中でもいっているように、われわれはしばしば、出来 ごとから25年、あるいは50年たった後で、本当に何が起きたかを知 るのです もちろん原爆は日本の降伏をもたらしたが、しかし 日本の降伏は原爆だけによってもたらされたのではない」(同上)とネ ルソン教授は、個人の記憶と歴史が混同するという問題点を指摘している。