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なぜ広島、長崎の声はアメリカに届かないのか 第4章①

4章 本当に広島、長崎の声はアメリカに届かないのか

スミソニアンの企画に反対する声があがる一方で、

アメリカの小学生は、広島で被爆した少女の話を聞いて、

アメリカにも、平和の像を作ろうとした。

この章では、子どもたちが取り組んだ平和運動を取り上げる。

 

4-1 平和プロジェクト

ニューメキシコ州アルバカーキの子どもたちが、

平和プロジェクトをはじめたのは、1990年、2月のことだった。

子どもたちというのは、アルバカーキー郊外にあるアルヨ・デル・オン小学校の

3年生から 5年生の児童である。

 

アルヨ小学校では、クリスティーヌ・ルックジョーンズとキャリー・カズナーの

2人の先生が、長年にわたって子どもたちに平和授業を行ってきた。

 

1989年、2人は、問題解決法という特別クラスを持っていたが、

その秋の課題は「軍拡競争」だった。

子どもたちは、いくつかの グループに分かれて、

どうすれば軍拡競争という問題を解決し、平和を達成することができるか、

自分だったらどうするかなどを、話し合ってきた。

 

そんな中で、あるグループのひとつが、

「子どもたち自身が平和教育を行う」というアイディアを打ち出した。

 

当時を振り返ってカズナ一先生はこういっている。

「そこで子どもたちは、どうすればそれができるか、可能な方法を考えました。

そして、そのための基金を作ることにしたのです。」(斉藤 1995a:4)

 

子どもたちは、平和への意志を具体的な形で表し、おとなたちに訴えようと考えた。

その形は決まっていなかったが、まずは、資金集めをすることになった。

バザーで売ったポップコーンの売り上げから、子どものための平和基金を開設した。

これが、5年間にわたる平和プロジェクトの始まりだった。

 

そのアルバカーキーの子どもたちのプロジェクトと広島の原爆を結びつけたのが、

1冊の本とひとりの平和活動家であった。


アロヨ小学校の図書室には、1977年に英訳が出版された

『サダコと千羽鶴』という本が置いてある。

それは、広島の女子中学生、サダコを主人公とした物語である。

 

「サダコは2歳の時に被爆し、その後元気に小学校から中学校へと進学していたが、

12歳の時、運動会の練習をしていて突然倒れてしまう。

白血病だった。原爆の放射線による白血病は当時治療の方法がなく、

中学生になったばかりのサダコは逃れることの出来ない運命を背負って、

わずかに残された日々を病院の中で過ごさなければならなかった。

しかし生きることへの希望を捨てなかったサダコは、闘病生活を続けながら、

紙の鶴を折り始める。1000羽の鶴を 折って願いをかければ、

その願いがかなうと友達から教わったからだ。

 

サダコは薬の袋を使い、次第に弱るからだをたおして1羽1羽に願いをこめながら

千羽鶴を折り続けた。しかし644羽まで折ったところでカつき、

12歳の秋にその短い生涯を閉じている」(同上)

 

自分たちと同じ年齢のサダコが突然白血病になり、

不治の病と戦わなければならなかったが、彼女は希望を捨てずに鶴を折り続けた。

 

これらのメッセージは、 1977年『サダコと千羽鶴』が出版されて以来、

アメリカの多くの子どもたちに伝えられてきた。


アロヨ小学校の子どもたちに、特別クラスにゲストとして招かれた

アルバカーキーの平和運動家、キャミー・コンドンは、

子どもたちに次のように語りかけた。

 

「サダコは644羽の鶴を折ったけれど、1000羽になる前に亡くなりました。

しかし、クラスメートがサダコの願いを引き継ぎ、

みんなで残りの356羽の鶴を折って千羽鶴を完成させたのです。

そしてみんなで、平和の願いを込めてサダコの記念碑を作りました」(同上:7)

 

実際には、サダコは、1000羽鶴を折っても病気が恢復せずに、

再度、鶴を折り続けたのであるが、サダコの亡くなった後で、

彼女のクラスメートが、日本全国に呼びかけて募金を集め、「

原爆の子の像」を作ったというのが、実話である。

 

原爆の子の像の台座には子どもたちの願いが刻んである。

「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです。

世界に平和をきづくための」(同上)

 

この碑は、1958年広島市の平和記念講演に建てられ、

いまでもその下には各地から千羽鶴がよせられる。


この話は、アロヨ小学校の子どもたちの心を動かした。

話を聞いてい た子どもたちの間から、「僕らもこの『平和の像」を建てよう!」

という声が起きた。(同上:8)

 

原爆の子の像アメリカ版を、アルバカーキーにも建てよう。

原爆は、このニューメキシコ州で作られたのだから、

二度と原爆が使われない平和な世界を願って、サダコの姉妹像を

建てようというわけである。

 

それに対してコンドンは、

「それは素晴らしい。だったら私がおとなのアドバイザーになってあげる。

私は日本に友だちがいるし、あなた方と日本の橋渡しができるから。」

と言い、(同上)こうして、平和の像を建てようという子どもたちの

プロジェクトが始まった。


コンドンの助けを得て、アロヨ小学校の子どもたちは

ほかの学校の子どもたちにもプロジェクトの参加を呼びかけ、

 

運動を広げていった。中学生も高校生も参加した。

「署名運動をやって、子どもにひとりードル寄付してもらう『ひとりードル運動』を

やろう。それで100万人の署名を集めよう。」(同上:11)と

メンバーの一人が提案した。


また、「平和の像は、原爆を作り出した発祥の地、

ニューメキシコ州 のロスアラモスに建てよう。」という目標が決まった。(同上)

 

こうして、子どもたちは、100万ドルを集めて

ロスアラモスに平和の像を建てようと歩みだしたのである。